葵祭・石清水祭・春日祭の三大勅祭は見る価値あり。
「葵祭」祭日5月15日 王朝絵巻のような行列が町を練り歩く
葵祭は正式には「賀茂祭」といい、平安時代の頃には源氏物語にも登場する代表的な祭りです。
この祭りは上賀茂神社(かみがもじんじゃ)と下鴨神社(しもがもじんじゃ)で行われる祭祀で、
平安貴族の大行列が京の町を練り歩くことで知られる華やかな祭りです。
葵祭は何のために始まったのか
葵祭は欽明天皇「きんめいてんのう(540~571年)」の時代、ひどい凶作のために飢餓・疫病が
流行しました。
その原因が賀茂大神の祟りといわれ、祟りを鎮めるために天皇が勅使を派遣して祭祀を行ったのが
始まりだといわれています。
葵祭の名前の由来は、平安貴族の行列の衣装や牛馬に、葵の葉と桂の小枝を飾ることから
きています。
葵祭の主な流れ
祭の3日前の5月12日に上賀茂神社では「御阿礼神事(みあれしんじ)」、下鴨神社では
「御蔭祭(みかげさい)」という神を迎える神事が行われます。
上賀茂神社の「御阿礼神事」は神馬を伴って御蔭山に神霊を迎えに行き、降臨した神霊を
神馬に乗せ本殿に迎えます。
下鴨神社の「御蔭祭」は神が降臨したとされる山から神を迎えて、本殿へお供します。
祭の当日は「路頭の儀」と「社頭の儀」が行われます。
祭の中心となるのは「路頭の儀」で、平安時代の京の役人である検非違使(けびいし)、
天皇の使いである勅使、神に奉仕する皇族の女性である斎王代(さいおうだい)など、
それぞれの装束をまとった500人以上の行列が京都御所を出発し、下鴨神社、上賀茂神社へと
練り歩きます。
それぞれの神社に到着したとき、社殿の前で「社頭の儀」が行われます。
勅使が天皇から渡された幣帛(へいはく)という供え物を奉納します。=幣帛奉納
その他走馬(そうめ)という神馬(じんめ)の牽きまわしや東遊舞(あずまあそびのまい)の
奉納が行われます。
社頭の儀が終わると行列は両神社を出発し、京都御所へ還ります。
「石清水祭」 祭日9月15日 生き物の幸せを願い魚鳥を放つ
石清水祭の成り立ち
石清水祭は京都・石清水八幡宮の例祭です.
かつては八月十五日に「石清水放生会(いわしみずほうじょうえ)として仏教の考えかたに基づく
生き物の殺生を戒めるものでした。
日本の神仏習合(しんぶつしゅうごう)により神道にも取り入れられ、石清水八幡宮では862年の
清和天皇の時代にはじまりました。
石清水祭の主な流れ
神幸の儀(しんこうのぎ)
石清水祭は真夜中の午前二時に男山山上の本殿で御鳳輦(ごほうれん)という神輿(みこし)に、
八幡大神(はちまんおおかみ)の御神霊をお迎えします。
そして平安装束に身を包んだ人々が御鳳輦を担ぎ、行列を成して松明と提灯の明かりだけで
山道を下ります。
絹屋殿(きぬやでん)の儀
絹屋殿は山麓の二の鳥居にお祀りの時だけ臨時に建てられる建物で、ここで勅使の奉迎を受けます。
頓宮神幸(とんぐうしんこう)の儀
頓宮(とんぐう)と呼ばれる仮の宮に御鳳輦が入ります。
奉幣の儀(ほうべいのぎ)
天皇からの幣帛(へいはく)や神饌(しんせん)、御馬(おうま)などが奉納され、勅使が御祭文(ごさいぶ
ん)を奏したのち雅楽(ががく)が奏されます。
放生行事(ほうじょうぎょうじ)
午前八時に放生川にかかる安吾橋(あんごばし)の上で魚や鳥を放つ行事が行われます。
行事が終わると橋の上で御神霊の平安と幸せを願って舞楽「胡蝶の舞」が奉納されます。
還幸の儀(かんこうの儀)
すべての儀式が終わると、御神霊が再び御鳳輦に移され。山上の本殿へお戻りになります。
「春日祭」 祭日3月13日 国家の安泰と繁栄を祈る祭り
春日祭の成り立ち
春日祭は春日大社の例祭ですが、もともとは藤原氏の氏神祭だったためほかの勅祭とは異なる形を
残していて、一般参詣者は、参道からの拝観のみとなります。
春日大社の例祭は、嘉洋二年(849年)に始まったといわれていて、かつては二月と十一月の申の日に
行われていたため、「申祭(さるまつり)」とも呼ばれています。
その後明治に入って、三月十三日に定められ勅祭となりました。
春日祭の流れ
祓戸之儀、着倒之儀を行った後、春日祭の中心的な神饌である御棚(みたな)、奉奠(ほうてん)、
御幣物奉奠(ごへいもつほうてん)、祭文の奏上、饗膳之儀((きょうぜんのぎ)斎行されます。